米州開銀(IDB)と世銀とアジア開銀(ADB)に勤務して
1.はじめに
今年の初めからフィリピンのマニラに在住している早川達二です。私が今回ADBに入り、これまで縁の薄かった中央アジアを主に担当するようになったことには、実を言うと何か運命めいたものを感じています。
2011年4月 ADBタジキスタンミッションにて
2.中央アジア
1994年の初秋、米国で経済学のPhDコースを修了したものの、職場経験はIMFでのサマーインターンのみという未熟な私をエコノミストとして暖かく迎えてくれたのは東京にある国際開発センターでした。この職場で、当時インフレとテロを克服して成長軌道にうまく乗りつつあったペルーのマクロ経済調査プロジェクトに入れて頂いたお陰で、ラテンアメリカにのめり込んでいくきっかけが生まれました。丁度14年ぶりに再開された、米州開銀(IDB)のYPプログラムに応募したところ、ワシントンでのパネルインタビューを経て、スペイン語の知識がまだまだ乏しかったにもかかわらず、本当に幸運にもオファーが私のもとに届きました。
センターでは、当時まだ独立後まもない中央アジアの国々に関する調査のチームにも入っていて、このプロジェクトがまだかなり初期の段階でメンバーを辞したので、チームの同僚には迷惑をかけてしまいました。「立つ鳥跡を濁さず」という伝統ある格言の正反対の生き方です。余談ですが、この同僚(女性)は当時オリックスの若きイチローの大ファンだったので、私はイチローの特集ビデオをせめてものお礼として彼女にプレゼントしました。その後大リーグでも大成功しているイチローのこのビデオは今では大いに価値がありそうです。
さて、この中央アジア調査プロジェクトには秋野豊筑波大学助教授(当時)にも旧ソ連の政治情勢の専門家としてメンバーに入って頂き、お世話になりました。だから、私が米国にいた3年後の1998年7月、内戦終了直後でまだ政情不安定なタジキスタンのための国連監視団に政務官として派遣されていた最中に、秋野教授が山中で機関銃を浴びて亡くなられたことを新聞報道で知った時には、心底驚きました。最近私はADBのミッションで初めて今は比較的平和なタジキスタンを訪れましたが、滞在中、中央アジアの和平のために48歳で無念の殉職を遂げられた秋野教授との東京での出会いを何度も何度も思い出していました。あの時、ワシントンDCに引っ越すために、私が途中で抜け出した中央アジア調査プロジェクトが実はまだ続いていて、そのために私が今回ADBに送られたのではないか、というのが私の個人的な運命説です。
3.米州開銀と世銀
1年だけでセンターを去ることになった私の将来を心配して下さったのか、私をセンターに誘ってくれた恩人でもある上司は、とても貴重な激励の言葉を贈って下さいました。「米州開銀では最低5年ぐらいは続けて頑張らないと皆に評価されないよ。」YPの契約は2年間でしたが、私は漠然と何とか最低でも5年間は続けようと覚悟を決めました。私は今でもこの「5年間」アドバイスを信奉していて、若い後輩にも自信を持ってお勧めしたい目標です。
このアドバイスの効き目もあってか米州開銀には結局10年近くもお世話になることになりました。ワシントンDC本部に加えて、コスタリカとグアテマラのカントリーオフィスでも勤務できたことには今でも大いに感謝しています。
2003年11月 IDBグアテマラプロジェクト訪問にて
その後縁あって世銀の東アジア局に移り、ここでは1997年のアジア経済危機以降のタイの経済成長の課題に関するレポートを書く機会に恵まれました。東アジア局滞在は短い間でしたが、この時の経験も今現在ADBでとても役に立っています。久しぶりにラテンアメリカ担当を離れたのは心理的にはとても新鮮でした。その後World Bank Instituteに1年滞在した後、ラテンアメリカ・カリブ局(LAC)に移り、再びラテンアメリカ、主に中米担当の仕事を今度は世銀で続けました。
友達にはとても親切に接する伝統のある、ラテン系の米州開銀では、世銀を少し恐れているか敬遠しているような上司が私の時代にはよくいて、曰く、世銀職員は厳しく、やや冷たいというようなコメントをしばしば私は聞いていました。しかし実際に世銀に入ってみると、確かに個性の強い職員は多いものの、前に聞いていたような冷たい雰囲気は特に感じませんでした。多分その昔には、世銀流の「厳しい」雰囲気が実際に存在していたのかもしれません。
去年の終わりまで、合計6年間勤務した世銀では日本人会の活動がとても盛んで、情報交換を中心に皆で助け合うとても良い雰囲気があって、本当に有難かったです。先輩方の話によると、かつてまだ日本人がそれ程多くない時代には、あまり世銀内での日本人同士の助け合いの習慣は強くなかったそうです。
ワシントンでは数年前に世銀と米州開銀の日本人を主力とするレッドライナーズというソフトボールのチームが創設されました。ここに仲間に入れて頂いて週末に練習や試合を皆で一緒に楽しんだことは忘れられない貴重な思い出です。
2008年10月 レッドライナーズDC
4.ADBの第一印象
さて、ここADBにはアジアの美徳があると日々感じています。基本的に職員はとてもまじめ、実直で、仕事の締め切り日、会議の開始時間など皆、几帳面に守ろうとしています。ワシントンでよく遭遇した、少人数が発言を繰り返して会議を仕切ってしまうような場面も多くないようです。
日本にある会社のように、ADBでは昼食時間は多くの人が一斉に12時頃にとる傾向があります。この時間、エレベーターやカフェテリアはかなり混雑します。世銀(12時半前後が人気)や米州開銀(1時頃がピークでした)ではここまでの昼食開始時間の集中はなかったと思います。私もその一人ですが、寒くないマニラでは早起き、早出をすることが楽で、そうすると12時頃には確かにもう十分に空腹感がわいて来ることも原因の一つでしょうか。
ADBでは昼食時間に直接ぶつけたBBLは少なくて、セミナーは大抵昼食の時間をうまくはずして行われます。サンドイッチを食べながら議論するという、米国の大学院ではよくあるスタイルはここでは不人気のようです。
オーストラリア人の活躍もADBでは目立ちますが、私にとって面白いのは、彼らがADBと言う時、私には完全にIDBと響き、いつも混乱してしまいます。オーストラリア人は発音上どうやって両機関を区別するのでしょうか。ADBにはMesa Hispanaというスペイン語を話す職員のインフォーマルな集まりがあって時々昼食会が開催されます。私はこれまで2回出席しました。メンバーはスペイン人や、他のヨーロッパ人、また私と同様にラテンアメリカに以前住んでいたような職員が中心です。この会に出ている最中にはADBではなくてIDBに戻ったような錯覚をしてしまいます。ADBタジキスタン事務所長は親切な日系ペルー人で、この方とはいつもスペイン語で会話をしています。
5.おわりに
個人的にフィリピンに対してはいつも歴史的な関心をとても強く抱いていました。1941年の日米開戦後、太平洋の覇権をめぐって日米が真正面から激突した場所。日本のマニラ占領、予想よりもはるかに頑強だった米軍のコレヒドール要塞、軍艦としては史上最大の被害を受けてついにシブヤン海に沈んだ不沈戦艦「武蔵」、米軍のマニラ奪回。太平洋戦争の話を父から幾度となく聞きながら育った私は、いつか歴史的な場所を自分自身で訪れてみたいと密かに希望していました。今回、ADBのお陰で私の長年の念願が遂にかないました。当地マニラで、戦争ではなくて開発課題に取り組めることは幸せです。
これまでお世話になった全ての方々に心から感謝しながら、この文章を終えさせて頂きます。