ワシントンDC開発フォーラム
DC Development Forum


国際開発ジャーナル2002年11月号寄稿

「ワシントンDC開発フォーラム」リレー連載
ミレニアム開発目標(MDGs)と日本のODA

JICA米国事務所次長
戸田 隆夫

三極点の相互接近?
 一昔前までは、一口に「アメリカ発」の開発議論と言っても、「米国政府発」、「世銀・IMF発」、「国連発」によって扱っているイシューや議論の組み立てが大きく違っていた。しかし、最近、当地にて三極点を日々往来してみて思うことだが、これらの間の距離感が急速に縮まってきている。今年の国連経社理のサブセッションではPRSP について議論がヒートした。世銀では、自ら主導するPRSPと国連が旗を振るMDGs の「縁談」の具体化について、比較的醒めた現業を後目にトップマネジメントと一部のスタッフが真剣な検討を進めている。EFA(Education for All)を巡っては、世銀と米国の主導権争いにMDGsを担ぐ国連が絡み合い、益々混沌としてきた。ブッシュ政権は、MDGsを敢えて避け、「IDGs とミレニアム宣言」という修辞で国際社会にコミットしてきたが、9月20日、同政権が発表した「国家安全保障戦略」では、援助50%増の約束を確認しつつ、「計測可能な成果」が不可欠であることを指摘している。その一週間後、ウインザーでのG8開発大臣会合とIMF・世銀年次総会の双方でやはり成果重視がキーワードのひとつとなる。「人」についても三極点間の交流が更に進んでいる。UNDPに対しては世銀からの人材投入に引き続き、米国国務省からも投入があった。また特に社会開発の分野において国連で長年実務を担った人材が世銀にも流れてきている。

「MDGs的なもの」と漂流日本
 三極点のベクトルの合力は、明確に一定の方向を指している。そして、その中に、MDGs、あるいは「MDGs的なもの」がビルトインされている。開発援助の諸活動を大きなひとつの塊として捉え、それが一定の期間において計測可能な具体的成果を挙げることについて国際社会が今後益々協働して取り組んでいこうとしている。日本の外交官が90年代半ばにおいて活発に動き、MDGsの原型となった新開発戦略の策定に一役買った、ということは、一部の関係者にはよく知られている。しかし、舞台がパリ(DAC)からNY(国連)に再び移り、「ゴール8 」が付加された時点で日本はこのプロセスに積極的に参画していくための動機を失ってしまった。そして、かつてのような先導力を発揮するための契機を掴みきれずに漂流している。

日米競演の対照性
 開発の局面で、何故、日本は漂流し始めたのか? 論じればきりがないが、ひとつの原因は、MDGsのような開発目標と日本の援助政策の在り様の間に存する距離にある。日本の援助政策においては、「金をいくら出すか」は常に明確であり、かつそれに対して誠実であったが、他方、「当該政策によって具体的に何を目指し何を達成するか」を後で検証可能な形で明らかにすることは稀であった。G8サミットの一週間前に当たる6月20日、日米政府は教育分野の協力に関するそれぞれのイニシアティブを発表した。コミットメントの額は、日本が米国のおよそ10倍。しかし、日本の政策イニシアティブには、目指すべき成果に関して数字で表されたものはない。他方、米国のそれには、16万人の教師育成、26万人の現職教師再教育、450万冊の教科書配布、25万人分の奨学金提供等の数字が目白押しに並んでいる。米国の援助関係者に言わせると、「政治的演出に過ぎない。いつものことさ」と素っ気ない。日本人からは「そのような数字を無責任に挙げることはできない。達成できなかったらどうするのか」、「会計検査院対策はどうするのか」、「まず哲学や理念を伝えることが大事」、「数字に血道を上げて、質の問題や個別のニーズへのきめ細かい対応を等閑視してはいけない」、「主にプロジェクトベースで対処してきた日本の援助の在り方を踏まえていない」等の反論が返ってくる。日本の援助業界の実態を知る者として、これらの御説は至極ごもっともと頷く反面、このままでは、国際潮流との乖離が益々顕著になる、という思いもよぎる。

変革への期待
 モンテレーからヨハネスブルグに至るプロセス、そしてマーロック・ブラウンUNDP総裁の10月訪日などを通じて、日本にもMDGsに象徴される様な国際協力の新たな潮流について、これらを「機会」として捉えようとする人が増えつつあることは注目すべきであろう。世界の流行り言葉に対する安易な迎合を避けつつも、これらの潮流に対して、より積極的に参画するとともに、それを梃子にしながら、日本のODAを抜本的に改革していくことをより多くの人々が意識し始めている。これらについて、知的に厚みのある議論、ロゴスとパトスが止揚した元気の出る議論、そして国際社会に通じる議論が日本の縦割り組織や既往のヒエラルヒーを超えて展開されることを期待したい。その結果、日本が挑むべきアジェンダ、すなわち何を目指して何をいつまでにやるのかを、より現実的な議論の俎上にのせることができるならば尚更のこと幸いである。
 無論、懸案は多々ある。例えば、日本のお家芸であるCapacity Developmentへの取り組みとMDGsの関係は如何にあるべきか。MDGsの目標年次である2015年はあっという間にやってくるが、他方、時には一世代以上にわたる息の長いコミットメントが必要であり、かつ数値化に馴染まない、人造りや社会の能力強化に対する支援と、即効性のあるSocial Service Delivery型支援との間の兼ね合いはどうするのか。緒方貞子、アマルティア・センの両氏がリードしてとりまとめつつある人間の安全保障委員会の報告が投げかけている問題、就中、平和と開発の問題について包括的に取り組むには、現在のODAやMDGsを支える知的枠組みで十分なのか。
 これらの問題について国際社会において有意の貢献をしていくためには、従来の思考の枠組みに囚われない、いわば「21世紀型」の優れた知性の参入が必要である。確かに、「ODA」は「外交の重要なツール」(川口外相)に過ぎないが、「開発」の問題自体は、外交や国内行政を巧妙に操る知性と行動様式のみで対応できるものではない。納税者と行政官庁と途上国の人々との狭間にたち、既往のやり方に長年親しみすぎた援助実務者の発想にも自ずと限界がある。世界人口の8割以上が直面している貧困と開発の問題に対して、日本社会は、内向きの議論に終始することを止め、国際社会への更なるコミットメントを通じて自らの社会の再活性化を図るべきである。そして、その際特に、将来を担いうるしたたかな知力と胆力を有する日本の若者たちが自由闊達に議論し、提言し、かつ実践する機会がこれまで以上に拡充されなければならない。若い世代は、そのチャレンジを自らの活力として日本や途上国の人々の期待に応えつつ社会を変革していく能力を有している。
 それに賭けてみようではないか。

(本稿は9月24日脱稿。文中の意見は個人の見解である。MDGsに関するDCフォーラムでの議論については、同フォーラムのウェブサイト(http://www.developmentforum.org/Records)を、また、開発と平和に関する包括的取り組みやODAという枠組みの見直しに関連する議論としては、拙稿「環境、平和と開発の相関を踏まえた国際協力のパラダイム構築」(国際環境協力創刊号)参照願いたい。)

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