ワシントンDC開発フォーラム
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「『声が聞こえる援助』を目指して」

 2002年4月12日、ワシントンDCにて、政府、実施機関、世銀グループ・米州開銀・IMF、企業、NGO、シンクタンク・大学、メディア等の経済協力関係者約40名が、「『声が聞こえる援助』を目指して」とのテーマのもとで、昼食を交え個人の資格で意見交換を行ったところ、概要は次の通りです。

【ポイント】

 

  • 援助の目的は何であり、その目的達成のために適切な手段かという根本的な命題を明確にする必要がある。そして、援助の理念を、対国益、対日本国民、対相手国政府、対相手国国民、対国際社会の各々の次元でどう認識し、その効果が検証可能となるよう個々のプロジェクトにどう落とし込むかが課題となる。「顔が見える援助」が自己目的ではあり得ない。
  • 援助額が多ければ相手国から感謝されるはずという思い込みを前提に、日本国民への説得のために「顔を見せる」作業を進めている。しかし、「顔が見られているかどうか」ということよりも、「どういう顔を(双方の国民や国際社会に)見せているのか」という点に思考の軸を移すべきであり、援助に込めようとしているメッセージ、即ち「声が聞こえる援助」という発想こそ重要である。
  • 具体的には、政策決定プロセスの透明化のための援助実施機関(JICA・JBIC)のガバナンスの強化、政策目標における相手国政府のガバナンスの位置づけの明確化、他の機関との援助協調や対話を通じての受入国側による処方箋作りへの参画、過去の援助の失敗の反省、公的支援の役割の再検討などが改革の方向性として挙げられる。

 

【本文】

1.『声が聞こえる援助』について−とくに現状批判的な側面に限定して
 (米州開発銀行理事・上田善久氏)

(1)今若い世代に問われていること

 最初に、キックオフでは特に批判的な側面に限定して問題提起をするが、これゆえに日本の援助について全面的に批判するというものではないことを最初に申し上げたい。また、今の日本の状況では、若い世代に期待するしかないという気持ちが極めて強い。ワシントンDC開発フォーラムも、若い世代を中心とした動きということで誘われプレゼンテーションをすることとなったものである。

 ODA額が巨額で伸びてきたにも関わらず、これまでその形成のプロセスで何が検討されたのか、すなわち「何を目的としたもので(Do right things?)、その目的達成のための適切な手段であるのか(Do things right?)」という根本的な命題に対する、援助実施者の判断プロセスが明確にされてこなかった。こうした客観的事実に対して、国民各層が、ODA賛否の立場を超えてそれぞれの立場から苛立ちを示すのも当然である。昨今のODA批判の対象は、ODAそのもというよりはむしろプロセスの不透明さにあるといえるだろう。

 このように援助理念そのものが曖昧になり、量の拡大が自己目的化してきた中で、援助を改めて手段として捉えなおし、「その手段により一体何を実現しようとしているのか」を根本から考え直す必要がある。すなわち援助の理念を、対国益、対日本国民、対相手国政府、対相手国国民、対国際社会、それぞれの次元でどう認識し、またその効果が検証可能となるよう個々のプロジェクトデザインにどう落とし込んでいくかが総合的に問われている。「顔の見える援助」というが、それ自体が目的ではあり得ない。

 第2次ODA改革懇談会最終報告に対するコメントであるが、現在のODA理念を批判的に分析、再構築するという知的作業が抜け落ち、逆に、現状を肯定的に総括した『アフガン問題への取組みは、日本国民のODAに対する関心を高めるとともに、ODAが日本外交の手段として重要な役割を演じることを再認識させた。』(報告書末尾)との一文で、本来取り組むべき難問をあっさりと片付けてしまっている。その結果、国民の意識高揚と「援助を見せる」ための技術的問題に終始した感がある。最近のアフガンへの取組みは今のところ「外交」の領域であり、援助の質の問題がクリアされたと誤解すべきではない。

(2)「顔が見える援助」の危険性

 まず、援助額が多ければ感謝されるはず、という単純な思い込みが、全ての前提となっている。これを前提にして、今はもっぱら日本国民向けの説得作業を進めている。この結果が「顔の見える援助」という日本国民向けの発想とスローガンであり、「日本の皆さん有難う」という類の看板をもっぱら日本国民向けに設置してみせることが論理的帰結となりかねない寒々しい状況にある。

 日本の援助を量的に支えているのが有償資金協力である。その意義については幾多の記述があるが、基本には返済義務を課すことにより受入国の自助努力を促すことで発展に寄与するという思想がある。これは、あくまでも受入国政府が将来30年にもわたり連続して責任ある当事者であることが前提であり、ガバナンスが前提になっているはずである。

 一方わが国は、受入国のガバナンスや政体には不干渉を装うことで額を伸ばしてきた。しかし、高額の援助を供与すること自体、内政への大きな干渉(現政権の支援?)であり、意図せずしてメッセージ性を有している。従って援助主体の理念や説明責任が問われるのは当然である。

 また受益者が現世代(の権力者)で負担者が後世代の一般国民という点も注意を要する。有償資金協力については、将来の返済は借入れ国の国民負担で、返済不能なら日本国民負担なので、双方の国民に等しく説明責任があるのは当たり前の話である。また、無償資金協力については、非効率的で支援目標とかけ離れた無駄な出費となり得る(国連での票など明確な目的があれば別だが…)。年間GDPが2−300ドルの国に各種の大型土木工事を行っている場合もある。これが現地の人にどのように見られているのか、その効果はいささか疑問であり、ネガティブなメッセージ性すら持ち得ることになる。

 更に、借款とは金融行為であるにもかかわらず、「援助」という名のもとに返済可能性の議論もなく追い貸しに走る危険性も認識しておく必要がある。

 援助額の大きさ拡大と政権支援という考え方には、援助が賠償から始まったという過去の歴史的側面も関係していると考えられるが、ただそのプロセスで国内産業支援や資源確保も目指すなど、当時は極めてうまく工夫されたスキームでもあった。また冷戦時代における国連での陣取り合戦も西側陣営の一員としての果たすべき役割に含まれていた。しかしこうした明確な目的が拡散していく過程で、借款の持つ上記のような問題点について無頓着であってはならない。

 最後に、総論として日本の援助理念が様々な場所で語られているにしても(成長、貧困、環境、伝染病など)、個々のプロジェクトデザインにおいて当該開発効果(outputではなくoutcome。例えば、学校建設がoutputとすれば、教育水準が向上するのがoutcomeとなる。)の検証を可能にするような数値目標の設定や事後評価方法が盛り込まれているのかどうかが問われなければならない。

 結論的には、「顔が見られているかどうか」ということよりも「どういう顔を(双方の国民や国際社会に)見せているのか」という点に思考の軸を移すべきではないか。すなわち援助に込めようとしているメッセージの問題であり、これが「声の聴こえる援助」という発想の原点である。

(3)さまざまな論点

 経済インフラの強化という点では、近隣諸国の製造業発展をわが国の税金で支援する意味を問い直す必要がある。過去は賠償、さらには原材料の開発輸入、日本産業の直接投資支援、それぞれの時代にそれぞれの意味はあった。しかし現況で途上国(東南アジア、中国)の経済産業発展支援を国策として正面から(日本企業支援とは言わずに)主張するのは到底無理ではないか。むしろ、社会政策面で日本が先進国として支援できる領域があるとすれば、これこそが途上国に対する援助の中核となるべきではないか。

 経済活動支援ということであればこれは民間資本の領域となるが、もしeconomically viableなプロジェクトに援助を振り向ければ、民間資金をクラウドアウトするのみならず、“easy money”故に逆に公的部門による非効率、高コストなシステム温存を強いていることにならないか。逆にいえば、彼らが求めている効率的な公益サービス提供ノウハウの供与とかけ離れているのではないか。いまや、日本自身が公益サービス提供のノウハウにおいては後進国に属しているのが現状だと思う。

 また、重債務国問題という名の援助の不良債権化も実は大きな問題である。過去の援助が社会経済発展に結びついていなければ、返済すべき世代が不満をいうのも一理ある。援助実行の時点で双方の国民参加はなく、かつ焦げ付きのツケは借入国国民(ニューマネーの停止という形で)と日本の納税者(償却負担という形で)が負うことになる。やはり返済不能が明らかになった時点で不良債権処理として日本、借入れ国双方の国民に対し透明性ある形で、かつ説明責任を果たした上で処理すべきである。現在の債務救済スキームではこうしたプロセスが回避されるため、表面的に援助の失敗(貸手、借手それぞれの責任も含め)が糊塗され援助の根本を考え直す機会を摘み取っている。折角の事例を分析する体制にはなっていないし、そういうマインドもない。

 日本援助を支える足腰の弱さ、すなわち日本のコンサルティング業界の抱えるエンジニアリング偏重の古い体質も足枷となっている。これも一因となって経済採算性を無視した大型プロジェクト志向になっている。サプライ側の発想にとどまっている限り、無駄な公共事業を海外で再生産するだけで、被害者はいずれにせよ日本と借入国双方の国民となる。

(4)聴いてもらいたい声は?

 以上が現状の理解と批判である。それでは、これから日本の援助にどういう声を載せるのか。国際社会での現状は、貧困削減、環境維持との整合性のある経済発展、国の制度の近代化(ガバナンス、司法制度、汚職問題など)を重視している。一方この流れに対する嫌悪感が日本から出ているのも事実である。「PRSPを超えて」という問題設定もその意識の表れであろうか。確かに、日本では民主制一つをとっても援助目標に置くべきかにつき合意がない(ミャンマー、中央アジア、中国への援助)。被援助国のガバナンスと援助の是非との関係についても、日本の援助関係者から答えが出されていない。

 理想型を言えば、わが国は戦前の加害者としての立場ではなく、むしろ民主制、人権など基本的な価値観を重視する戦後アジアの先進国として、そのメッセージを託すべきであった。戦争に負けたことによって民主国家が確立したので、その面をわが国の基本的な価値観としてメッセージにすれば良かった。とくに冷戦崩壊後はそれができたはずである。かつ双方の国民の視線にも堪えられたはずである。しかし、引き続き慣性の働くままに量的拡大を目指してきた。日本がアジアの中で最も優れた民主的で基本的人権を守る国ということでリーダー足り得たはずだが、それを認識しないまま独裁的、権威主義的国家を支援してきたため、国民から見てもわかりにくいようになった。

 「権力は腐敗する」という経験的な事実を前提にしつつ、将来の返済も含め開発効果をモニターしていく気があれば、権力交代のメカニズムや政策決定の透明性など、国家としての連続性を維持し得るようなガバナンスを強調するのは当然の責務であった。アジア的発想では賢人支配ということで権力者支援に傾きがちだが、人民の視線にも等しく留意しておくべきであった。

 一番の問題は、日本自身がメッセージ性を喪失していることである。民主制を語るにも信念がなく(必ずしも悪いことではない。ある意味では声高に主張しなくてもうまく日本では機能してきたのかもしれない…)、人権を説くのも面映い。社会セクターについても日本の経験を漠然と説くばかりで理論的体系や普遍性に欠け、さらに心配なのは、得意の大型公共プロジェクトですら採算性、経営効率性、経済効果についての分析手段をもっていない。

(5)処方箋

 第2次ODA改革懇談会最終報告は次のように述べている。「国別援助計画や分野別課題別援助方針等の上流に位置する基本政策の下で、具体的なプロジェクトの企画立案から実施等の下流に至るまでの一貫性を確保したODAのことである。それを確保するために、われわれは『ODA総合戦略会議』の設置を提言した。またそのような一貫性のあるODAを実施するためには、これまでの取組みを拡充し、実施体制を整備しなければならない。」

 しかし従来の方法を踏襲しつつ、「…拡充する、強化する、改善する…」ことで足りるのか。やはり「外交」と「援助」は本来次元を異にしたプロセスであることを認識して、援助の世界での方法論を確立することが急務ではないのか。もちろん「援助」の最終決定にあたり「外交」が考慮され、場合によっては優先されること自体は当然であるが、形成の過程では整理されていなければならない。この点を避けていると、どんな機関を設置しても「賢人(?)による総合的判断」という曖昧な世界にとどまることになり、援助の“accountability”を獲得することはできない。

 従って、以下を提案したい。

  1. 政策決定プロセスを透明化するため、JBICやJICAなど執行機関自身のガバナンスを強化する。プロジェクト決定の前提として、国別戦略との整合性、開発効果目標の導入(計測可能な目標を含む)など、プロジェクトデザインの改善と事後評価を可能とする新たな手法を導入する。すなわちもっぱら「援助」の切り口から”accountability”の向上に努め、「外交」の要素を切り分ける必要がある。もちろん最終的に政治的外交的な決定となれば、その場合にはそれを明確にすればよいだけのことである。
  2. 政策目標におけるガバナンスの位置づけを明確にし、その意味では明示的に内政にもコミットする。将来の返済に繋がる長期的な関わりである以上、国家としての連続性が確保されることを条件とするのは双方の国民に対する当然の義務であるはずである。それが無理な場合には、人民に直接手を差し伸べるしかなく、その場合「無償援助」しかあり得ない。
  3. 他の機関との援助協調や対話を通じて受入国側での処方箋作りに参画し、援助側社会での声を高める。このプロセスで意図した援助が実施できないにしても、受入国サイドでの開発戦略策定に向けてのオーナーシップ意識醸成には役立つはずであり、日本が被害者意識をもつような事象ではない。
  4. 不良債権の公開こそ援助への国民参加のもっとも重要な前提である。これは単なる自己批判ではない。社会経済が急激に変わっているのは皆承知しており、その中で援助の失敗がない方が不思議である。たとえばビルマやインドネシアへの借款など、失敗か否かの判断は別にしても教訓を学び取る上で格好の事例となるはずである。無謬性のフィクションに寄りかかることで現実から目をそらすべきではない。組織が壊死状態かどうかは失敗から学べるか否かで決まる。
  5. 日本の産業振興という国内政策の側面支援という役割が終わりつつある中で、近隣諸国の産業発展を日本の公的機関が支援する意味をもう一度考え直す必要がある。しかも産業育成なら経営ノウハウも併せ持つ民間資本の方が実効性が高くなっているはずである。したがって、対政府援助としては、やはり社会部門や国家制度の近代化を通じて、経済成長の効果が持続可能で、貧困者にも裨益できるようなシステム作りに寄与すべきであり、そうした方向を目指せるようわが国援助機関の組織を変えていくべきではないか。

2.出席者より席上及び直後に電子メールで出された意見

→(上田氏)敵を伸ばすからけしからんということでなく、公的資金を使うことの適切性が問題だと思う。民間が入るのであれば、民間で必要な投資も受け入れられる。民間と競争してまで公的資金を出すべきか。日本企業支援ならば、特別円借款をやめて、日本企業支援という目標を明確にすれば良い。途上国の発展云々という以上、どうしても疑問が出てくる。

→(上田氏)目標を明確にして、日本の産業支援を明確にするのであれば良い。それこそメッセージである。我々が直面している問題は、いわゆる開発問題について、そのような問題が整理されないまま、額の確保のみが議論されていることである。

→(上田氏)それが援助協調である。援助は国民と国民の関係であり、全ての人が参加し納得することが必要である。

→(上田氏)民主制について、日本はなぜ恥ずかしがるのか。日本は賢人支配の思想が好きである。「もっと国民に目を向けよ」と言うと、役人らしくないと疑問の目を向けられるのが現状である。相手国の人民の顔もみながら進める、というプロセスを踏んでこなかったのも、日本の民主制に対するコミット不足のあらわれかもしれない。他方、日本で民主制を連呼する人も、民主制がわかっているのか疑問である。民主制は主義でなく制度であり、一人一票で政権交代を保証する制度だからこそ、中期的には安定した政治システムを維持することが可能となる。これは西欧の独断的な価値観とは思わない。実際にやるしかない。

→(上田氏)結局、援助は一人一人の人間の問題である。当然そういったことも含める。貧困者に対して、あなたたちの声を聞いている、ということも一つの立派なメッセージである。

→(上田氏)プロジェクトのデザインにあたり、どういう効果の発現を将来の評価項目に盛り込むのか、あらかじめ関係者共通の認識を持っておくことさえできれば、夢の共有も全然難しくないはずである。それをやらないで大所高所ばかりの議論では、援助機関としてのアカウンタビリティに欠けることになる。もし被援助国自身のガバナンスがなければ、主体的当事者間の契約として融資は成り立たない。その場合には、米国が主張するように無償で直接貧者に訴えるしかないだろう。

→(上田氏)この点については一層の知恵が求められており、関係者間のアドバイスが極めて重要である。それが援助協調であり、その中で被援助国がオーナーシップを持つ必要がある。そして、最終的には理念を共有して援助を活用してくれる必要がある。そのプロセスで出し手としてのメッセージを載せることこそ大事であり、カネは手段にすぎない。

→(上田氏)わかる形で目標値を設定し、成果を評価し、また必要があれば目標値を変えることもあり得る前提のもと、ズレを随時検証しながら将来のプロジェクト設計に活かしていくことが必要である。これがなければ。いつまで立っても過去から学ぶことなく惰性で進むという今日のような状況が続いていく。もっと個別の目標をつくり、検証していってはどうか。例えば、過去のODAの失敗について検証するプロセスを持たないか。こういう検証作業であれば、援助に携わっている若い職員も学者もNGOも熱心に取り組むことと思う。幸いにしてそういう事例は一杯ある。是非それを援助に携わっている若い方に企画してほしい。

1.貧困削減対策とLLDC援助の重視

 最近の貧困削減重視という国際的な流れにそって、中所得国やLDCへの日本の援助を減らす一方、最貧困国(LLDC)への援助額をもっと増やす必要があるのではないか。総ODA予算に占めるLLDCへの援助額の割合で見る限り、日本の2000年度のODAの約19%がLLDCに割り当てられており、この数字はDACメンバー22カ国中、ギリシャ、スペインについで3番目に低い割合となっている。(OECD 2001 Development Co-operation Report参照)。 アジアのLDCや中所得国の貧困層をターゲットにした援助は根本的には問題がないと思うのですが、近隣だからアジア重視という政策は見直されるべきではないだろうか。LLDCへの援助額を増やし、各ODAプロジェクトの目標をMDGsのいくつかのターゲットに直接結びつけることで日本のODA全体の目的が明確となり、質的向上が図れるのではないだろうか。

2.ODAの第一受益者としての被援助国民の位置付け

 ODAはそもそも国際法秩序に基づいた政府間の経済協力であるという考えからか、日本のODAは特に、内政不干渉の原則に沿うようにして実施されてきたという印象を受ける。そのためか、被援助国政府の国内における正当性の有無に関わらず、日本側には常に相手政府に対し「遠慮」のようなものがあったのではないだろうか。いいかえれば、被援助国政府の要求は国民の要求であるということを仮定する一方で、被援助国の国民よりも政府自体がODAの第一受益者がとなっている場合が多くあったのではないだろうか。MDGsの多くが途上国国民の福祉向上に焦点を当てている以上、日本のODAの質的向上のためには第一受益者として被援助国民を位置付けることが必要となるのではないだろうか。

3.ODA事業におけるコンサルタントサービスのアンタイド化

 コンサルタントサービスをアンタイド化することで日本のODA事業をより効果的・効率的にすることができるのではないか。日本の限られた財源の中で、コンサルタント市場を国際的に開放することで最も効果的なコンサルタントサービスを効率的に確保するという発想である。アンタイド政策と援助効果に関する議論は以前からあったと思うが、1998年の世銀の研究(Assessing Aid)では、「タイド援助はアンタイド援助よりも25%効果が低い」ということが指摘されています。皆さんもご存知とは思うが、昨年4月のOECD/DACハイレベル会合でのアンタイド化に関する勧告は、LLDC向けのODA(食糧援助と技術協力を除く)に限定されるもので、基本的にDACメンバーの技術協力はアンタイド化に関する勧告の対象にはなっていない。ちなみに、2000年度、日本はODA総額167億4000万ドルのうち約24億3000万ドル(15%)あまりを技術協力に当てている。(OECD 2001 Development Co-operation Report 参照)。もし、単純に世銀の研究が正しいとすれば、2000年度レベルの日本の技術協力のアンタイド化は、タイド技術協力の8億1000万ドルの追加予算に匹敵する(?)と思う。

 確かに、市場開放によって日本の開発コンサルタント業界が大きな損害をうける、という議論もあるだろうが、ここでもう一度問題にされるべきなのは、日本のODAは一体誰のためにあるべきか、ということではないだろうか。日本のODA政策の中で、被援助国民を第一受益者として位置付けるのか、それともアメリカのようにODAはそもそも被援助国だけでなく援助国内のODA業界自体に利益をもたらすべきものだと、開き直ってしまうのか。 

 ちなみに、昨年の4月より英国の全ODA(技術協力を含む)はアンタイドとなっており、実際に英国以外のNGO・コンサルティング会社が英国ODAマーケットに参入することが(理論上)可能となっています。日本において援助額増大への議論が難しくなる中、この「25%の効果」についてもう一度じっくり議論されるべきではないだろうか。

(以上)