ワシントンDC開発フォーラム
www.developmentforum.org

日本の「開発外交」は如何にあるべきか

−ワシントンDCの視点−

 2002年4月17日、ワシントンDCにて、政府、実施機関、世銀グループ・米州開銀・IMF、企業、NGO、シンクタンク・大学、メディア等の経済協力関係者約20名が、日本の「開発外交」は如何にあるべきかについて、昼食を交え個人の資格で意見交換を行ったところ、概要次の通り。

【ポイント】

  • 開発に関する国際会議や主要案件が昨今増大しているが、その場限りの対応・処理ではなく、日本の外交目標を見据えた骨太の一貫した姿勢・メッセージ・行動が必要。そのためには、「ODA政策」を包摂する「開発外交」という視点が重要。
  • 「開発外交」では、日本の直接的な政治・経済上の個別利益と、途上国の開発実現という一般利益の双方を実現する「技」を探求することが大事。特に、一般利益の追求における真剣さと対話・協力をないがしろにしてはならない。
  • 「開発外交」の場には、国際会議、マルチの援助とドナー調整、バイの援助、開発理論・開発研究、横断的イニシアティブがあり、それらが相互に連関しながら渾然一体となって進んでいる。
  • 「開発外交」で打ち出すべき骨太の一貫した姿勢・メッセージ・行動を考える際には、途上国の開発実現という「一般利益」を形成・具体化・実現する際に、日本としての独自の付加価値を示していくとのアプローチが効果的。その内実としては、日本やアジアの開発経験が重要な要素となる。
  • 今後の具体的方策としては、(1)開発戦略に関する研究の組織的推進、(2)開発関係実務者による国別・分野別ナレッジ・マネジメントの強化、(3)骨太の政策的メッセージの形成と発信、(4)組織・予算・人事的な裏付けの確保、(5)新しい政策形成手法と技術の活用が考えられる。

冒頭プレゼンテーション担当:紀谷 昌彦(きや・まさひこ)

kiya@kiya.net ―――――――

1964年函館市生まれ。1987年東京大学法学部卒、外務省入省。ケンブリッジ大学歴史学部国際関係論修士号及び同大学法学部国際法修士号取得。在ナイジェリア日本大使館、防衛庁、外務省欧亜局・大臣官房・経済局を経て、現在、在米国日本大使館一等書記官(経済協力担当)。最近の寄稿は、国際開発ジャーナル2001年9月号「米ブッシュ政権の新援助政策と日本」、同2002年4月号「貧困削減戦略国際会議:PRSPアプローチの現状と今後の課題」及び同6月号「米国の新開発援助イニシアティブが意味するもの」。

(本プレゼンテーション内容は発表者個人の見解であり、所属先、ワシントンDC開発フォーラムの立場を述べたものではない。)

【冒頭プレゼンテーション】

  1. はじめに

     一昨年8月より在米国日本大使館で経済協力(主に米国や世銀との関係)を担当している。また、在ナイジェリア日本大使館に勤務した際も経済協力の一部を担当した。本フォーラムの趣旨に従い、これまでの経験等を踏まえて、政府・外務省の立場ではなく個人としての意見を述べたい。

     本日は、開発問題に対する日本の取り組みについて、全般的な外交戦略の観点まで遡って検討することを議論の目的としたい。今般のテーマを取り上げる直接の契機となったのは、3月11日の本フォーラム直後に電子メールで出された次の匿名の意見である。

    「よく『ODAは外交政策の重要なツールだ』とか、『援助と外交は不可分だ』と言う。私も全くそのとおりだと思うが、日本の援助戦略がぼやけてみえる最大の原因は、それと密接不可分であるべき日本の外交戦略がぼやけている(少なくとも一般人からはそう見える)からだと思う。日本の国益を明確に定義して、それに基づく外交戦略を打ち立て、それに沿った援助戦略を考えるということでないと、いつまで経っても焦点の定まらない議論が続くことになると思う。(…)安全保障、資源、貿易、投資、通貨・金融等の様々な角度から検討して、我が国として何をしなければならないのかを(少なくとも)政府内で意思統一する必要があると思うが、どうも現状ではその根っこのところが欠けているような気がする。(…)誰かが中心となって軸となる政策を打ち出す必要があるのではないだろうか。」

     この問いかけに答えるべく、まずは私見を述べて皆様のご批判を仰ぎ、ご意見を伺いたい。
     

  2. 「開発外交」という概念の提唱:開発はODAだけの問題ではない

     開発に関わる外交課題が昨今増大している。本年3月に開発資金国際会議が開催され、6月にはカナナスキスでのG8サミット(アフリカが主要議題の一つとなっている)、8−9月にはヨハネスブルグ・サミット(WSSD)(環境のみならず開発も主要議題である)、そして来年秋にはTICAD3が予定されている。その他、東アジア開発イニシアティブ(IDEA)、世界エイズ結核マラリア対策基金、WTO(キャパシティビルディング関連)、気候変動(途上国問題)、ミレニアム開発目標(MDG)、PRSPプロセス、ODA改革、アフガンをはじめとする個別国支援など、多くの課題・案件への取り組みが相互に関連しながら並行して進められている。

     これらの行事や案件について、ともすれば個別にその場限りの対応・処理(特にイベントに対する「タマ」作り)が中心となりがちであり、それ自体やむを得ない面もあるが、本来であれば、これらの行事・案件に対応する上で、日本の外交目標を見据えた骨太の一貫した姿勢・メッセージ・行動が必要だと思う。

     そして、主要な外交目標の一つが途上国の開発実現であるとすれば、「ODA政策」を包摂する「開発外交」という視点(概念、思考枠組み)が重要というのが、当地で仕事をしていての私の実感である。開発といえばODAに目が行きやすく、また国民の税金の使途に直接関わることもあって、我が国の開発問題への貢献についてはODA及びその改革という観点での議論が深められているが、ODAは途上国の開発実現の手段の一部とはなり得ても全てではない。途上国の開発実現に目標を置く場合には、その目標を実現するための様々な手段を視野に入れる必要がある。

     

  3. 「開発外交」における目的の設定:個別利益と一般利益の双方を追求

     開発分野の外交では、日本の直接的な政治・経済上の「個別利益」と途上国の開発実現という「一般利益」(それはひいては国益にもつながる)の双方を追求することが必要となる。

     しかし、特にグローバルな(マルチの)外交の場では、このうち「一般利益」の追求がいわば共通言語(大義名分)となり、日本の「個別利益」の追求も「一般利益」の追求における真剣さ及び対話・協力の基盤なしには実現が困難となる(説得力を失う)のが実態であると思う。開発を巡る現在の状況下で、「個別利益」を含め日本の利益を実現するためには、日本として本気で途上国の開発を実現しようとする姿勢が重要と考える。この点をないがしろにしてはならないというのが私の実感である。

     「個別利益」と「一般利益」のいずれを優先するか、その相互関係如何、といった問題設定は、開発分野のみならず外交一般に共通する問題であるが、その双方を実現するフォーマット(「技」)があるはず、という視点から可能性を追求することが大事だと思う。

     この関連で、ジェームズ・C・コリンズとジェリー・I・ポラスという人の書いた「ビジョナリー・カンパニー」(1995年、日経BP出版社)という有名な経営書から大きな示唆を受けた。ソニー、ディズニー、GE、ボーイング、アメリカン・エクスプレスなどの卓越した企業は、「ORの抑圧」をはねのけ「ANDの才能」を活かす、両者のバランスをとるという月並みな話ではなく両方を手に入れ共存させるというアプローチを取っているという。外交においてもこれは当てはまると思う。

     「個別利益」と「一般利益」を共存させる「開発外交」の基本理念(価値観+目的)とは一体どういうものだろうか。あまりに抽象的で恐縮だが、一案としては、「日本の持てる資金・人材・知見といったリソースを、諸制約のもとで可能な限り動員することにより、途上国の開発を実現するとともに、日本にも適正な利益をもたらすこと」という形で提示できると思う。

     同じく「ビジョナリー・カンパニー」には、「収益力は、会社が存続するために必要な条件であり、もっと重要な目的を達成するための手段だが、多くのビジョナリー・カンパニーにとって、それ自体が目的ではない。利益とは、人間の体にとっての酸素や水や血液のようなものだ。人生の目的ではないが、それがなければ生きられない。」というくだりがある。これは、会社を国、収益を国益に置き換えればあてはまると思う。それでは、日本にとって安全・繁栄に加えての目的/価値(アイデンティティ)は何か。そして、途上国の開発の実現(=開発外交の主たるスコープ)と日本の安全・繁栄・その他の目的/価値(アイデンティティ)との関係はどのようなものか。この点について議論して深めたい。

     なお、「個別利益」と「一般利益」の概念は、現実に適用すると相対的かつ重層的で明確な分類は困難であり、あくまで理念型である。例えば、大野健一政策研究大学院大学教授が提唱している「アジアのダイナミズム」(www.grips.ac.jp/forum/参照)には、いずれの側面もあると思う。

 
4.「開発外交」の場:理論・会議・マルチ援助・バイ援助が相互に連関

 政策の視点をODAの使用方法ではなく途上国の開発に向けた場合、そのための外交の場としては、実務経験を通じた実感では、次の5つに分けて考えるのが理解しやすいと思う。ただし、この5つは相互に連関しつつ渾然一体となって進んでいる。(いずれについても、オーナーシップへの配慮から、昨今は途上国側との対話が一層重要になってきている。)

  1. 国際会議

     先進国と途上国の双方を含む国際社会が共通規範を形成する場である。

  2. マルチの援助とドナー調整

     その共通規範が個別国・分野毎に具体化され実施されるプロセスである。

  3. バイの援助

     バイのドナー国それぞれの判断により実施されるものであり、各ドナー国の多くのリソースを使う具体的行動として重要である。近時、このバイの援助と上記(1)(2)とのインターアクションが増大している(いわゆる「パートナーシップ」の拡大・深化)。

  4. 開発理論・開発研究

     「外交」と言うにはアカデミックに過ぎると思う向きもあろうが、本分野全体の根底にある認識・思考を規定しバックボーンになるものである。

  5. 横断的イニシアティブ

 PRSPプロセス、ミレニアム開発目標(MDGs)、TICAD、IDEA等の個別のイニシアティブは、以上全てを横断するものとして総合的な視点から把握・対応する必要がある。

 
5.「開発外交」の内容:日本としての付加価値をコアに展開

 「開発外交」には以上のような様々な場があるが、骨太の一貫した姿勢・メッセージ・行動として何を打ち出すべきかを考えたい。

 これには様々な切り口があると思うが、途上国の開発実現という「一般利益」の認識及び共通規範を、形成・具体化・実施するに際しては、日本としての付加価値を示して貢献し考えを反映させることが、日本として「一般利益」と「個別利益」の双方を追求するための効果的なアプローチになるのではないかと考える。これにより、例えば欧米等が「一般利益」を歪めて「個別利益」を追求するような事態を効果的に防止することが可能となろう(ただし、当然ながら欧米等とのプラスサム・補完関係は排除しない)。また、「一般利益」の追求に際して日本のみの独自路線をとることは様々な意味で効率的・効果的でないことを強調したい。

 それでは、日本としての付加価値とは何か。この点を深める必要があるが、現時点の考えとしては、(1)日本自身の開発経験、(2)日本のアジア支援の経験・アジアの開発経験(いわゆる「アジア・カード」)、(3)日本的経営技術・文化、(4)日本国民の価値観(環境、平和等)などが重要な要素になると考えている。この関連で、留意点を三つ指摘したい。

 第一に、日本はひとりよがり(内向き)にならず、開発理論・開発研究の裏付けをもって普遍的な言葉で世界に向けて主張・発信する必要がある。

 第二に、途上国の現状は多種多様であり、東アジアや中国など一部の諸国では発展も著しいので、途上国のやり方を十二分に活かすことに重点を置き、実際には日本の付加価値といっても途上国のやり方をサポートする程度が適当である。

 第三に、日本の付加価値を発信する上でも、ODAは引き続き重要である。日本のメッセージとODAをセットにすることで、説得力と実効性を増す相乗効果がある。本年3月に米国が発表した新援助イニシアティヴもそのような一例である。

6.「開発外交」強化の具体的方策:研究・現場・政策メッセージの連携強化

 それでは、以上の諸点を踏まえ、具体的方策として何に優先的に取り組むべきであろうか。私見として次の4点を挙げたい。

  1. 開発戦略に関する研究の組織的推進

     これまでの我が国の経済協力を評価することから得られる知見は甚大である。その知見に基づいて、現在の開発理論・開発研究の主流に対する異議申し立てやイデオロギー批判を行うこともあながち困難ではない。そのためには、分散したリソースの有機的活用、そして実務者と研究者の対話が鍵となる。

  2. 開発関係実務者による国別・分野別ナレッジ・マネジメントの強化

     国別・分野別の開発ニーズの把握、途上国との対話、知見の深化が必要である。最良の解決策の鍵は途上国の日々の現場にあることから、現場のエンパワーメントこそ重要であり、中央で全てをコントロールすることは無理という現実を直視すべきである。中央で決めるべきものは何か、そして現地で臨機応変、柔軟かつ創意工夫を持って対応べきものは何か、役割分担を十分に考える必要がある。

  3. 骨太の政策的メッセージの形成と発信

     上記(1)(2)を通じて、研究者及び実務者の知見を集約し、そこから日本としての付加価値を骨太の政策メッセージとして概念化して、フォーラムや案件にとらわれずあらゆる場で一貫した主張を展開することが、「開発外交」の目標達成にとって有効なアプローチである。

  4. 組織・予算・人事的な裏付けの確保

     必ずしも容易ではないが、中長期的には「開発外交」を展開するための制度的な手当(研究強化・現場強化・政策目標に合った組織編成等)が望ましい。それまでの間は、既存の組織・予算・人事の枠組み内で、バーチュアルな形でリソースを活用するなど、出来ることを次々実現し、実績を積み重ねていくことが大事である。

  5. 新しい政策形成手法と技術の活用?

 一つのアイディアではあるが、電子メール、ウェブサイト等を活用しつつ、既存の組織の枠組みを超えたネットワーキング・知見の共有により、政策の形成と実施の双方において質の改善が期待できるのではないか。ワシントンDC開発フォーラムはその実験的な試みである。そして、この手法・技術の活用は開発分野に限定されないと思う。「組織文化」に代わる「ネットワーク文化」の構築、及び「ネットワーク文化」を媒介にした「組織文化」の改変も視野に入れて、まずは開発外交の部面で行動を起こしていきたい。


7.討議事項

 この機会に次の3点につき皆様のお考えを伺って討議し、可能な限りのアイディアを集約・整理したい。

○「開発外交」の目的は何か。日本にとって安全・繁栄に加えての目的・価値は何か。

○「開発外交」において日本が主張すべき内容は何か。

○「開発外交」を強化するための具体的方策は何か

 

【席上及び事前事後に電子メールで出された意見】

  1.  日本の開発外交の目的をどのように設定すべきかという問題は、根本的で難しい。自分は米国のビジネススクールで学んだが、会社の経営の目的をどうするかについては様々な議論がある。日本なりのプラスアルファの価値観やブランドイメージを確立したいと思うのであれば、まずは日本が何が得意なのかを分析する必要がある。現在、国際社会は欧米中心の枠組みで援助をやっているが、それと違う何かを出すのが良いと思う。その何かについては思いつかないが、ケース・バイ・ケースで異なるものであろう。開発の実利というよりも、日本なりのブランドイメージを出すことが重要である。
  2.  「開発外交」を考えるに当たっては、日本と世界の関わり方を考える必要がある。日本は、資源を世界に依存していて、輸出をし、外貨を得ていかなければならない宿命がある。安定した世界経済や自由貿易という世界経済体制は日本が国として生存するために必要であり、開発面での活動は、そういった日本の生存に関わるものであるという認識が必要ではないか。また、戦略を考える場合には、どのようなリソースが活用できるのかを十分に考える必要がある。経済状況が悪化しリソースが減少している中で、今までのような全方位的なアプローチが取れるのか。この問題は、お金と影響力を如何にコントロールするかということに尽きると思う。欧州の小国は、ODAの金額は限られていても、自らの比較優位を明確にし、資源を特定の問題や議論に集中させることによって、世界の援助議論で丁々発止と関与しているように見受けられる。これはG7という場においても、英国、ドイツ、フランスは相互に調整して特定のアジェンダをプッシュしてくる。そのような中で、どうやって日本の戦略を立て、国際的に認知されていくかが課題である。そのために、他国を説得し、自らのアジェンダに他国が共感し味方して、更にそれに他国のリソースを動員できるような「外交」も求められてくるのではないだろうか。
  3.  最近、世銀アフリカ局の中堅職員がアジアを勉強するプログラムに同行して、2−3週間アジア各国を回った。その中の多くは世銀アフリカ各国事務所で採用されたアフリカ人が優秀ということで本部に配置された人達である。旅程の最初の1週間は、このようなアフリカ人を中心に、アジアからアフリカに持ち帰れるものがあるということで目が輝いていた。しかし、2週間目には、本部出身のエコノミスト系が、これではまずいということになってけんかになった。途上国も、成長促進のためインフラをやりたいという気持ちがあるが、貧困削減を掲げて国際機関が押さえ込んできたところがある。先進国間の競争で抜きんでることは難しいが、援助を受け入れる各途上国の支持を得て、そのアセットをどのように国際機関などの先進国の土俵で生かせるか、考える必要がある。

    日本に対する期待は、アジア諸国の中でも目に見えて落ちている。しかし、これらのアジア諸国は、日本を勉強しつつ、問題がある所には、独自の改良を施しているおり、その点にプライドを持っている。例えば、シンガポールは日本の問題点を反面教師として見据えて、組織の内外での人材流動化を推進している。従って、日本も学べるところすらある。アジア的プラグマティズムをアジア全体が共有している。

    日本は、援助について外に目を向ける意識が強すぎる一方で、日本国内における国際化が遅れている。日本への途上国の人々の受け入れにより、日本と途上国をシームレスにつなぐことが、援助からビジネスにつなげていく上で重要である。

  4.  今まで日本の中で、外交戦略、開発戦略といった問題について、幅広くきちんとした議論が行われていない。そもそもそのような問題を提起する場がない。本来であれば、国民から託された政治家や、行政府の外務省、財務省なりが議論する必要があった。残念ながら政治家、行政機関は議論をするだけの経験・知見を有さず、短視眼的、組織防衛的になっている。まさに、このワシントンDC開発フォーラムのような場が必要だと思う。同じ分野での仕事をしながら、別の組織に属し別の文化、バックグラウンドをもっている。これはワシントンDCだからできたのかもしれない。戦略案を当地で作って日本に発信するのも一案だが、それが実際に活かされるかは未知数である。日本にDC開発フォーラムと同様の場を作ることが重要であり、DCでやるより遙かに困難かもしれないが日本でもやるべきである。これまで、外務省と財務省は、開発問題・外交問題について踏み込んで十分に議論するというより、各々が持っている情報をもとに主導権を握ろうとしてきたと見る向きもある。霞ヶ関を超えて、外務省、財務省、JBIC、JBIC他の協力体制のもとで、全体戦略を練る必要がある。組織改編の議論もあるが、現在の組織でも十分可能である。各組織の立場を超えて、より高次元の立場へ向けて議論をすればよい。
  5.  外から見ていて、各省庁間のみならず 財務省の中で国際局と主計局ODA担当の間でもコミュニケーションが十分にとれていないことがあるように思う。現状は必ずしも弊害ばかりではないが、日本ODA予算のもとで、少ない予算で意味のあることがたくさんできる。東京の中で風通し良くしてセクショナリズムを捨て、日本のODAの質の向上を図ることが重要である。好むと好まざるとに関わらず、ODA外交が必要になっている。米国とカナダを比べると、米国のODA予算が大きい中でカナダは自分の存在を示したいがためにより真剣に考え、自国の比較優位を十分に検討した上で、WIDやナイル流域イニシアティヴを推進している。カナダの開発庁(CIDA)は自国の経験として、米国との河川流域交渉の経験を生かして途上国にいかにしてアイディアを伝えることが出来るかという問題を提起した。日本もこのように考えながらやっていく必要がある。
  6.  資源外交、通貨外交、通商外交など外交の各側面にはいろいろ名が付けられているが、外交面では日本は特殊な国であり、開発外交を考える際にも、まずは憲法9条、平和国家をはじめとした日本の特殊性を勘案して、何を実現したいのかを真剣に検討する必要がある。
  7.  最近はナイ等がソフトパワーの重要性を訴えているが、日本は軍事力のみならず実はソフトパワーも弱いのではないか。その理由は、第一に、大学がソフトパワー、インテレクチュアルなパワーの核に十分になっていないからである。日本では、留学生にとって魅力的な研究や発明ができず、さまざまな理由から、留学生にあまり魅力的でなく、優れた留学生を集める体制が整っていない。アメリカなどと大きく異なる点である。また、発信力も弱い。第二に、外交を実施するリソースの活用が十分に行われていないからである。外交リソースの中ではODAが大きく、これは他の弱い部分を補う限られたリソースの一つなので、外交という全体の中ではそもそも大きな地位を占めており、その活用の方途を十分に詰めて考えなければならなかった。しかし、その地位にふさわしい議論がこれまでなかったと思う。
  8.  昨今経協関連機関の組織のあり方について議論されているが、諸制約の中で即座に出来ることは、日本のプレゼンスを示すべく発信していくことである。これは透明性を高め、内外の人からきびしい目で見られるため緊張関係が出てくるというアカウンタビリティを高める効果もある。積極的な広報は、金額的にかなり少なくても出来るはずである。例えば、良いODAプロジェクトがあるが、あまり広報されていない。JICAでは地球家族という番組で、なかなか良いものを紹介しているが、限られたTVカバレッジしかないので、もっと広げると良い。日本人は広報について、謙虚であって良いことをやれば見てくれる、長い目で見ればすばらしいと思われると思っているが、これは国際的には通用しない。他方、内容のないものを宣伝はできない。正確かつ謙虚に宣伝することを通じて発信し理解されることが重要であり、そのための予算の費用対効果は極めて高いものである。例えば、あるプロジェクト技術協力(プロ技)に使う5億円の1%で良いので、運用上との位置づけでできるのではないか。ODAの1%が広報に使われれば、対外発信・アカウンタビリティ向上という双方の面で大きく改善される。
  9.  日本はODAの額も大きく目的は多岐に亘っても良いが、アジアのダイナミズム・国際公共財という観点と、地域別の課題という観点があり、後者についてはアフリカ、中央アジア、東アジア、中南米など各地域について個別の課題、外交がある。地域レベルに降ろした外交に照らして、その中で何を実現するかを考える必要がある。ODAは縮小しているので、各地域毎で考える際にも、選択と集中が必要である。カナダが女性に焦点を置いて成果を上げ、国のメッセージを伝えることが出来た。キューバは、最貧国の僻地に2600人の裸足の医師を何年か送っている。4000人を超える途上国のなかでも貧しい青年を医師に育て、本国に送り返して、貧しい地区や僻地の貧困な農村で医療活動に携わるようにするといった協力をしている。帰国後、各国の法律上医師資格を認められず正式には医者になれない場合もあるが、貧困な地区で医療活動を行っている。このような活動をやっていることを途上国は知っている。日本はトップドナーなので、その予算は効果的に使えば、地域毎に違ったメッセージを出せる。具体的にどうすべきとは言いにくいが、オランダや北欧など、いろいろな国の良い例について調べてみてはどうか。
  10.  日本の援助に「理念がない」ということは、「リーダーシップがない」ということとコインの裏表の関係にあり、共通の問題だと思う。ロシア・中央アジア・東欧諸国の人達との民間部門開発に関する世銀主催ビデオ会議で、21世紀へ向けてどう競争するかを議論した際、ウクライナの人から、欧米ではリーダーシップがとられているが、日本の経済改革には正にそのリーダーシップが欠けていると指摘された。
  11. 日本としての強みがあるところを主張すべきであり、この点議論を深める必要がある。冷戦が終わり90年代になっても、富者と貧者のギャップについて解決策が見つかっていないところ、日本は貧富の格差を比較的小さく保ったまま成長を遂げられたので、この点を打ち出せるのではないか。
  12. 日本にとって重要な個別利益は何かといえば、日米安保を中心とした安全保障、日本の産業支援、国連の安保理議席の獲得、石油の確保等が挙げられる。そのための国別援助の配分はどのようなものであるべきかについて、おおざっぱなペーパーでも書けばよい。それを総合して考えると、ぼんやりとしたものであっても戦略が見えてくる。こうして再整理してみると、日本のODA配分も実際には戦略的であり説明もつくのではないかと思う。ただし、このように戦略を描いてみることが大事である。
  13. 「付加価値」と位置付けている日本ならではの「アジア・カード」や、「日本の経験」等は新しい袋に入れないといけないと思う。企画部門からアジア担当部門に移ったが、途上国側のいろいろな面での発展や(見違えるほどではないにせよ)、市民社会の活発化をつくづく感じ、日本が売るものが「日本」だけでは相手にされなくなるような感覚がある。PRSPが「オーナーシップに基づいたプロセス」であることからもわかるように、途上国側の状況を良く見極め、相手に合った「もののやり方」をサポートして相手国の心をつかみ、それに若干でも「日本的」と言える要素があったらそう宣伝してしまうなど、したたかな戦略が必要ではないだろうか。
  14.  単にODAという言葉に包摂されたもの以上の開発外交という観念が重要という点については、大いに賛同する。特に開発外交というものが、グローバルな「一般利益」、「グローバル利益」への日本の貢献(財政面のみならずアイディア面での貢献も含む)、そしてそこからのリターンといったインプット・アウトプットを流れを意識した上で築かれるべきものと思う。「一般利益」、「グローバル利益」というものは、日本の貢献が無くても形成されるものだが、日本の経済的なサイズを考えれば、貢献をしないということは、むしろフリーライダー的な行為であると見做しても良いぐらいだと思っている。また、貢献しないことによる問題は、フリーライダーであると同時に、フリーライドする対象が日本にとって納得できる「形」、「サイズ」、「色」、「香り」であるかは疑わしくなるということだろう。短期的にはやり過ごすこともできても、長期的にはツケが廻ってくるものと考えて、組織的に長期的な開発外交のモデル(単語だけを並べる表面的な紙切れをつくるのでなく、有機的に各々の要素が連動する体系)を作っていくことが必要ではないだろうか。

     個人的には、狭義の意味での開発を環境、貿易・投資とカップリングさせることが、「一般利益」形成に向けた開発外交のモデル化に有意義に働くと感じている。貿易が如何に「一般利益」の形成につながり、如何に日本にリターンがあるかは分かりやすいだろうが、環境も同じくリターン(ないしは負のリターンの回避)という側面があると思う。リオでもヨハネスブルグでも、「環境だけでなく開発もあるのだ」という(若干批判のトーンを含んだ)声はよく耳にする。確かに持続可能な開発を議論するフォーラムであるが、「環境だけでなく開発もある」という意見でも、「環境」と「開発」を並列させた上での批判であってはならず、そのようなフォーラムで環境問題について議論されたらされたで、その環境議論を上から開発で包み込むような形で考えるのが持続可能な開発であると思う。つまり、議論としての開発のみでなく、環境問題についての議論を踏まえて、方策としての開発の役割に重視する必要があると思う。そのような意味では、例えばヨハネスブルグへの日本政府の経協のタマも、断片的なものの寄せ集めでなく、サイズは小さくても一般利益というものとの一貫性を伴ったものを出すことによって、そしてそのタマを考え出す議論プロセスによって、日本の経協体制の中にグローバルな視点を基盤とした開発外交モデルを形成する上で役立つエクササイズであると感じている。

     日本としての「付加価値」については、これを追求し、開発外交のコアとして展開することは重要だと思う。その付加価値の中身がどうであれ、付加価値そのものが日本の独自性を追求するものであることもご指摘通りだと思う。「欧米等が『個別利益』を『一般利益』に滑り込ませて主張する(押しつける)ことも防止可能であり、『日本のみの独自路線』は様々な意味で効率的・効果的でない」というくだりは、色々な読み方が出来るところだと感じた。確かに、独自性の追求は、独自路線を独り歩きすることではない。では、どう独り歩きせずに全体のフォーラムに乗り込むかということであるが、どうしても「欧米等が『個別利益』を『一般利益』に滑り込ませて主張する(押しつける)ことも防止可能」という部分がネガティブなニュアンスを含んでいるように感じてしまう。「欧米等のアイディアの独占を回避する」という意味で述べていると理解するが、ではその独占を防ぎ、日本なりのアイディアのシェアを確保し、日本の独自性を活かしたアイディアを入れ込んだ際、果たして欧米のアイディアとの間に防波堤を築いてしまうべきだろうか?私は防波堤は築くべきでないと思うし、またそのような外壁付きではアイディア市場への参入もできないと思う。グローバルな開発概念も製品の独占的競争市場のように製品の差別化(product differentiation)としてのアイディアの差別化という側面で戦略的競争が起きるのだと思う。そういう意味では、独自性の追求という形で健全な競争関係がアイディアの提供者間であってもいいとは思う。しかしその戦略的な競争でも、反発しあい代替材を開発するのか(stragetic substitutes)、シナジーを追求する補完材(stragetic complements)については、やはり開発概念市場においては後者なのだと思う。PRSPへの日本のインプット、日本版の開発戦略ということで日本の付加価値を追求するという議論の中で、なんとなくではあるが代替物の開発という視点を強く感じている。既存の欧米のアイディアとの補完性という点から考えてみるのも一つの方法なのではないだろうか。そういうアプローチで付加価値を考えることにより、欧米にも説明しやすい日本のインプットが提示できるのではないだろうか。 あくまでも議論しながら考えているような点ではあるが、全く新しいモノを作り出すより、既存のモノを加工し、使いやすくするのに長けている日本の風土に合うような気もする。
  15. 自分は、開発問題を直接手がけたことはないが、これまで通貨危機問題など開発の周辺部分に関与したものとして、いくつか気がついた点を申し上げたい。まず、「外交」という国の政策と関連付けて議論すべき対象は、公的資金又は公的実施機関によるものに限定すべきであろう。公的援助以外の援助活動とも当然出来るだけ連携していくべきだとは思うが、それを「外交」の範疇に含めることは「開発を外交で汚されたくない」というようなもっともな意見も出ることとなり、適当でないと思う。ただし、公的な活動として実施する開発援助は、「外交」(ここでは、安保、通商、資源外交、通貨外交等を含む広い意味で使っている)と密接に関わりを持つべきことは論を待たないと思う。

    そうであれば、「開発外交」の目的を議論するためには、その前段階の議論として、日本としての「外交」政策が必要となるはずである。これが明確にされて初めて援助が「効果的」になされたかどうかが分かるはずである。通常、援助が効果的になされたかどうかは、相手国の貧困削減とか経済発展の観点から見てということが多かったと思うが、それに劣らず、日本国民から見て、日本の国益から見て効果的であったかどうかという観点が劣らず重要だと思う。その意味で、会議の席上で紹介されたデンマークの例は非常に興味深いと思う。他方、もともとの「外交」政策がはっきりしない中で「開発外交」の目的を議論することには、個人的に何かしらの空しさを感じざるを得ない。

    残念ながら、現状では、日本には明確かつ体系的な「外交」政策は存在していないように思う。従来の「外交」をめぐる議論は、ともすると「ハト」か「タカ」かとか、米国との距離感による違いとかをベースにしたものになりがちで、日本独自の世界観に基づく体系的な「政策」とは呼べないものであったのではないだろうか。もちろん、個別国に対する外交政策(例えば対露外交)は存在するだろうし、個別の分野毎(例えば資源・エネルギー分野)に担当省庁が対外政策を持っているのだろう。また、それぞれの分野でそれが何らかの形で日本の援助政策に反映されているのだろう。ただし、このようにそれぞれの狭い世界でバラバラに実施していることを足し上げても国民に分かりやすい一貫性のある「(開発)外交政策」は見えてこない。

    「開発外交において日本が主張すべき点」又は「開発で日本が相手国民に伝えるメッセージ」を考える際にも、同様の問題があるような気がする。「何のために」援助をするのかで、どこに、どのような形態で、どういうメッセージで援助するかは、大きく異なってくると思う。将来的に、アジアを中心に経済的、政治的関係を強化してEUのような形を模索するのであれば、日本の援助も、そのような方向への動きを促すように、アジア経済全体の底上げを目指すものとなるのだろう。その場合は、借款中心で、メッセージも経済発展を重視したものになり、アジアでの開発経験を他の地域に広めるというようなことは二次的な意味しか持たないのだと思う。逆に、アジア各国は強力な競争相手であり、このような国に対してはこれ以上支援すべきではなく、今後はこれまで関係の比較的薄かった地域での経済的・政治的関係を強めるのだということであれば、アフリカ等を中心に、グラント中心になるのだろう。また、内容的にも、貧困削減とかがより重要になるのかもしれないし、アジア各国の成功体験をこれらの地域に伝えるというのであれば、どの部分をどうやってアレンジしたらアフリカ等にも転用できるのかを、真面目に踏み込んで研究する必要があるのだろう。

    確かに、日本はこれまで外交的には対米依存が大きかったので独自に国際的にリーダーシップをとる必要もなく、援助にしても戦後賠償的メンタリティーを一方で引きずりながら、他方では「援助は先進国の義務」という欧米のタテマエのレトリックを受け入れて、増分主義で予算が順調に増える中、どこに資源を集中するか(何をしないか、あきらめるか)というようなことを真剣に検討せずに済んできたのであろう。ただ、米国が唯一の超大国として君臨し、欧州は結束を強め、アジアでは中国が外交攻勢をかけているというような中で、日本としてもこれまで通りというわけにはいかない。また、経済力の面でも、日本国債が格下げされ2流国の仲間入りをしてしまった。このような中で、更に借金を重ねて毎年1兆円程度の予算を外国のために使うためには、もっと分かりやすい説得力のある説明が必要だと思う。これをサボっていると、いつか国民からしっぺ返しが来る。現に、ODA1割カットというような話が出ても、国民はそれをほとんど問題とも感じない。これは「開発」分野で十分議論がなされていないからというよりも、その前段階の議論が欠けているという面もあっていかんともしがたいところもあるが、「外交」戦略の中の援助の位置づけは何か、何のための援助かという点を十分に整理し切れていなかったことが、日本の「開発」が一部のビジネスの世界の人以外からはあまり関心をもたれなかった原因だと思う。

    どうすれば日本も立派な「外交」政策を持てるのかを議論するのは本題から外れるが、それを抜きに「開発」の分野だけで、それぞれ独自に「目的」を設定し、その更なる効果的実施を目指すための具体的方策を検討することはできるだろう。「そんなことをやって何が日本のためになるのか」というような納税者からの基本的な問いかけには必ずしも十分に答えられないかもしれないが、「ODAにはとかく無駄が多い」というような批判には答えることができると思う。具体的論に入ることはやめるが、基本的には、情報公開の徹底と外部評価の徹底を勇気を持って実施することが肝要だと思う。スキャンダラスな取り上げられ方をされるかもしれないが、避けて通れない道ではないだろうか。また、タイド援助の問題も、国民の税金を使って実施するものであることを考えれば、いきなり全てアンタイド化するというのも非現実的だとは思うものの、いつまでも競争力のない建設業界やコンサルタント業界をODAで支えるわけにもいかないので、3年とか5年とか期限を切ってアンタイド化し、業界の効率化、構造改革を促すというようなことは考えられないだろうか。

    16.「開発外交」の必要性、目的設定、そして、マルチ・バイが相互連関するなかで有効な発信をする必要性の指摘に共感する。私の印象では、問題は出尽くしており、あとは様々な諸制約の中で、@戦略的メッセージを構想し(まさに他の方が問題提起されている、外交政策・日本が伝えるべきメッセージの内容)、Aメッセージのパッケージ化、様々な外交イベントを念頭においた発信方法を考え、実行していくか、という点につきると思う。従って、@とAの中身について深い議論をする必要があるのではないだろうか。例えば、@の点について、国際機関や米国政府・シンクタンクなどが集中し、政策形成や情報発信の一拠点となっているワシントンDCの優位性を生かして、DC開発フォーラムで更に議論を深めていくことは意味があるかと思う。

    17.まず、「開発外交」と言ってみても、日本としての「外交」政策が明確にされる必要がある、という指摘は至当なもので、いくら重たくて開発そのものの範疇を超えるとしても、この点が議論の出発点にならざるを得ないのだと考える。しかし、少なくとも先日のDC開発フォーラムでの議論においては既にこの点はクリアーされているような印象を受けたので蛇足覚悟で申し上げると、さらにその前に、そもそも「開発外交」など必要なのか、という出発点以前の疑問にも答える用意が必要ではないか。「開発を外交で汚されたくない」というテーゼは、純粋に開発(貧困削減)効果の極大化を目指そうとしても、「外交上の配慮」といった得体の知れない理屈でそれが歪められて開発効果が極大化しない状態はなくすべきだ、という思想だと思う(私は、開発とODAを分ける、という考え方は、この文脈においては、実はよく理解できていない)。あるいは、金持国のエゴのために、貧困に喘ぐ子供達が犠牲になる、といった表現の仕方もあるかもしれない。別の観点から述べると、冷戦中は、まさに政治的配慮の下でのそれぞれの陣営への取込み、という意味での援助供与がなされたところ、冷戦終結後「援助疲れ」が見えた、ということは、その減った分が政治的(外交的)配慮でかさ上げされていた部分で、これからの時代の援助には冷戦中のような政治的思惑は必要なく、たとえばミレニアム開発目標(MDGs)達成に向かって、純粋に開発の観点から援助を行うべし、という主張もできると思う。それが、戦後、世銀をはじめとした国際社会からの援助を受けて復興・成長した日本の国際社会への「恩返し」、当然果たすべき「国際責任」である、とも言える(戦後、「賠償」という観点からはじまった援助であるという点も敷衍されるかもしれない)。

    これについては、緒方貞子氏の発言や第2次ODA改革懇談会での議論であった、「開発援助は、景気がいいからやり、景気が悪いからやらない、といった類のものではない」という考えを、どのように解釈するか、がひとつのポイントになると思う(上述のように、日本の「恩返し」「国際責任」だから景気が多少悪くても当然にしなければならない、と解釈すると、純粋に開発を目指すべきもの、もっと直接的な表現を使うと「利他的」でもいいではないか、という「開発外交」全否定論になる)。

    また、開発効果極大化という純粋な理想に動かされる、「利他的」に行う「恩返し」だ、というようにまでナイーブに考えなくても、確かに公的資金を使う以上、日本としての政策上の利益追求の観点は必要であるが、他方、「外交」などという抽象的な言葉で追求する「国益」は得体が知れず「開発外交」などは実体のないものであり、個別具体的な「国益」を追求する援助、たとえば、我が国企業進出の足掛かりとなす援助、といったものを目指すべし、という、「外交」そのものへの批判にも通じる、別の観点からの「開発外交」不要論(不存在論)があるかもしれない。

    ここでは、これらの「開発外交不要論」に対して議論することは避け、一方的に、先述の「開発援助は、景気がいいからやり、景気が悪いからやらない、といった類のものではない」というフレーズの私なりの解釈を披露させて頂きたい。私は、開発援助は外交のツールであり、外交は景気の良し悪しには関係なく厳然と存在するものであるため、景気がよいからやり、悪くなればやめる、といったものではない、と解釈する。日本は、アメリカのように赤裸々でなくとも軍事援助という形で欧州各国等が行っている軍事的手段による国家意思の示威はできない。誤解を恐れず申し上げると、あるのは、カネである。札片をきって貧しい相手に言うことを聞かせることの道徳上の議論はさておき、日本が何かを主張するときに、相手に言うことを聞かせる背景に、やはり、援助の威力というものは否定できない。勿論、特定のことをする・止めることが如何に相手の利益になるかを説き詰める種々の交渉上の技巧は尽くすのだが、同時に、如何に相手の利益にならないか、を直接示すカードになり得る。所詮、国際関係は、利益と利益のぶつかり合いである。(勿論、インド、パキスタンの核実験のときのように、それすらも効果がなかったという見方もできると思う。かといって、日本の限られたカードを放棄するのは短慮という他ないと思う。)

    他方、途上国の貧困層のことを真剣に考慮せずに、ただただ政治的カードとして恣意的にカネを人参の如くぶら下げると言わんばかりに、援助をした、というアリバイがあれば、あとの開発効果はおろか、そのプロセスにおける適正な使途(相手国政府高官の懐に入る等)をも不問にしていい、という訳はなく、キックオフにある通り、「特にグローバルな(マルチの)外交の場では『一般利益』の追求がいわば共通言語(大義名分)であり、日本の『個別利益』の追求も『一般利益』の追求における真剣さ及び対話・協力の基盤なしには実現困難(説得力を失う)、日本として本気で開発を実現する姿勢が重要(ここをないがしろにしてはならない)」という点が重要である。したがって、日本が援助を行う際には、以下の諸要素をバランスさせて考えていくべきである。

    1. 日本の主張実現のためのカード(外交上の駆け引きの材料)

       これは、援助停止というマイナスの面だけでなく、援助増額というインセンティブを与えるというやり方も考えられる。更には、援助供与・実施の過程で、相手国を望ましい方向に発展させるという効果も期待できる。

    2. 開発(貧困削減)実現

       これには、(イ)中国への環境援助のように、直接我が国にも好影響をもたらす面もあるもの、と(ロ)純粋に途上国の開発効果最大化に向けて行う、という要素があると思う。(その間には、地球温暖化対策の意味合いのある援助やテロ・政情不安定の温床となる貧困除去による資源の安定的供給を目指す、というものがあるだろうが、(ロ)に至らない部分は、上記に属する部分かもしれない。)

         3.適正な使途

     公金である以上当然だが(「機密費」ですらアカウンタビリティーが求められている)、透明性を向上させることは、ひいては、開発効果の向上にもつながる。

    このような援助を実現するための体制としては、ありきたりだが、政策策定機関(霞ヶ関)と援助実施機関との間の明確なデマケ(役割分担の線引き)及び連携という、一見相反する要請を満たすものにする必要がある。これは、政策策定機関(勿論、昨今の「政治主導」の流れもあるので、霞ヶ関だけでなく官邸から永田町も含む)は、特に(1)の観点に集中し(援助実施機関へのマイクロマネジメントの排除)、援助実施機関は、特に(2)及び(3)に傾注することにより、それぞれの観点からの要請を最大限実現することが肝要である(現時点では、残念ながら、いずれも中途半端ではないか)。他方、政策策定機関は、だからといって、いわゆる「マル政」案件だとゴリ押ししてアカンタビリティーもフィージビリティーもなくなれば地に足のつかない代物になるし、援助実施機関は、経済的合理性にのみ邁進することにより納税者が何を欲しているか、という観点から遊離し、さらには、奇麗事だけでない厳しい国際関係の中、ナイーブな者ほど体よく利用されて終わり、という事態にもなりかねない。したがって、両者のデマケの明確化と共に、お互いが何を考えているか知り合い、また、お互いの「餅は餅屋」の判断を尊重し合いつつ風通しよく対話するという意味での連携も重要である。この連携の前提には、(1)の考慮がやはり上位(語弊があるかもしれないが)にあることは私見として付け加えておきたい。但し、そのためには、我が国の「外交」政策が明確にされる必要があり、そうでないと援助実施機関も羅針盤のようなものが見えない、また、そもそも援助受入国・他のドナー、さらには国民にも見えない、という問題がある。現時点で一番弱いのは、残念ながら、政策策定機関による、この部分と言わざるを得ない。

    そこで、「開発外交」で目指すもの(理念)は何か、という問については、私見だが、「外交」というものは、究極的には、我が国国民の安全と繁栄を維持増進するもの、に尽きると思うので、まさにこの観点から個々の分野・事例において判断を下していくものと考える。そこで我が国の理念・メッセージというものは、たとえばフランスのように、「文化帝国主義」といわれようと自国文化の普及というものが国是となっているか、というと、個人的には疑問なので、究極のところは、安全と繁栄に付け加えるものはないと思う。ただ、すこしブレークダウンしたレベルで議論すれば、開発外交においても、もっと安全保障の観点を加味すべきだとは思う。我が国は、軍事的「手段」は行使できないが、これが安全保障に無関心であっていいということにはならないと考える。従って、アメリカの開発援助のように世界の安全保障とまでいかなくても、少なくとも我が国に影響を及ぼす安全保障上の懸念を軽減・防止するために、その脅威の一因である貧困を除去するという発想がもっとあってしかるべしだと思う。開発に政治・安保の考慮など違和感がある、と感じる方もいるかもしれないが、軍事的手段を事実上持たない我が国にとって、開発援助という手段は、政治・安保上の要請を満たすためには貴重かつ必須なものだと思う。かかる観点からは、各種の国際会議やイシューは「開発に関わる『外交』課題」ではなく単なる開発関連の「国際的な」アジェンダだと思う。

    同時に、同様のレベルにおいて、アジアを中心に経済的・政治的関係を強化するのか、強力な競争相手である、と認識するかによって、どの地域にどのような形態の援助を行っていくのか、という議論が出てくるのだと思うし、また、開発に関するフォーラムにおいて、各ドナーがしのぎを削る場面で立ち回っていくために如何にタマ込めをしていくか、という議論も出てくると思う。ここで結論は出せないが、これまでの「要請主義」を越えた、「開発外交」政策というものを、もっと明確に整理して打ち出していく必要がある。

    (以上)